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任天堂「Wii」元企画開発者・玉樹真一郎が考える情報発信の価値

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“未来を変えるプロジェクト”では、記事の制作段階でさまざまな方と議論し、フィードバックをいただきながら、コンテンツを制作しています。その中で、記事制作に協力をいただいた情報発信の達人:任天堂「Wii」の元企画開発者である玉樹 真一郎さんからのメッセージがとても示唆に溢れており、ご本人に了解をいただき、こちらに掲載させていただきます。玉樹さんの「情報発信」に関する熱意溢れるメッセージを、ご一読ください。

 

発信は自らやることか、やらされることか

まずボクに声をかけてもらえたこと自体が幸せでやっぱり人に会うとか、ご縁とか、大切だなと思います。この幸せがあるからこそ、発信をやめられないという中毒に陥っているように感じます。ボクが本当は引きこもりタイプな人間なのに、講演をつい受けてしまうことが、その中毒の証拠ではないかと思います。

今回の「インフルエンサーだけが知っている4つの誤解」という記事の中で、発信の初回をどうやって経験するか? ということがみなさんの関心ごとではないでしょうか。ボクの場合は、本を出したこともあって「講演してほしい」というお話が来て、情報発信の初回をうまく経験することができました。そもそも本を出したのは「任天堂で学んだ偉大な知恵を本にして、前の会社の皆さんに恩返しというか、落とし前というか、とにかくケジメをつけておきたい。それから、こんな面白いことを黙っておくなんて、もったいない」という個人的な思いが発端で、それはいつの間にか無意識に生まれた考えとなり、理性的なボクには避けようのないことになりました。「仕方ないから書くしかない」という感覚が心のどこかにありました。

「やらされる」とか「仕方なくやる」という力って、実は大きいですね。行動することが大切というと一般論的過ぎて面白くも何ともないですが、アリな考えな気がしています。行動の論理的な理由付けを考えて妥当だという結論を導く努力や時間が「下手の考え、休むに似たり」で、誰かや何かに強制的に行動させられたほうが命を効率的に使えるのかもしれません。

しかし、よくよく考えると「命をどう使うか」なんてこと、どうして考えなければ、いけないのでしょうか。あるべき世界の美しい姿がごくごく個人的なイメージとしてあり、その理想的な場所では「命はその素晴らしさに似合った使われ方をされなければならない」という原理があって、その原理と自分自身のエゴを比べた時にどっちが大きいかというと、原理のほうが大きい気がします。ボクはその原理の奴隷になっているという、そんな感覚が強いですね。

話を元に戻すと、発信は「やらされている」ものという感覚があり「やらされるけど、結果良いものだから、やってみる」と理性的に処理しているところがあります。一方で、冒頭にお話した通り「気持ちいいから、やる」という本能的な感覚もあります。前者は理性的で、後者は本能的な理由付けです。これらが合体して「気持ちよくてやりたいことを、強制的にやらされる、結果も良いものになるだろうし、まぁいいか」という受け入れやすい・ありがたい状況が生まれると、もう止めません。強制されることにまったく違和感や嫌悪感を感じなくなりますね。

運命とか出会いとかご縁って、言ってみれば強制的な人間関係でしかなくて、でも、よくよく考えてみると、強制的でなく自らが判断して得た人間関係なんて無かった気もします。

風呂は入る前には面倒くさいが、入った後に後悔したことはない

玉樹さん直筆イラスト「風呂は入る前は面倒くさいが、入った後に後悔したことはない」

ちょっと話は変わりますが、昔、糸井重里さんが「風呂は入る前は面倒くさいが、入った後に後悔したことはない」というお話をしていて、風呂嫌いのボクはこの言葉でお風呂に入るようになりました。この世界のあらゆる行動は、実はここでいうお風呂と同じようなものではないか? 理由ではなく「行動する」ということ自体が、既に気持ちのいいものなのではないか?という仮説を持っています。それこそ「生きた証」という意味が、行動という行為自体に含まれている気がするんです。

まとめますが、発信という行為は、一回やらされることで得ることが多いように感じています。特にボクのようなひきこもり体質な人にとって、「ボクがやらされる状況」を作ってくれる人が近くにいてくれるだけで、すごくうれしいです。

ウマイ具合に人にやらせるプロデューサーが多くなれば、発信者も増えるんでしょうかね。ただ、誰かの人生をプロデュースするなんていうのはそもそもおこがましい話ですし、やっぱり自分でプロデュースするしかないのかもしれません。

よくない方がセクシー。ひとは不完全に惹きつけられる。

ボクはコンセプトワークについての手法の本をまとめさせていただきました。ただ、いまだに「これがベスト」とは思えないので、「こんなやりかたもあるかなーという提案です」というお話をするようにしています。そのほうが気楽だし、妥当な気がするからです。

実は、ボクは「発信」という言葉に違和感を持っています。発信するというよりは、見えちゃう・聞かれちゃうこと、というニュアンスのほうがしっくりきます。「発信」という言葉には、「良いこと・正しいことを発信する」というニュアンスが感じられて、この言葉を見るだけで若干冷や汗が出る感覚があります。

逆に「見えちゃう」という言葉には、良くないこと・正しくないことが、うっかりポロリしちゃった的なニュアンスがあるからこそしっくりくるといいますか。少なくとも、ボクはボクが発信していることが正しいとは一切思えません。一生懸命考えてある程度のところ、自分なりにはイイ線いってるとは思いますが、良い・正しいのハードルは高くて、時々ゲンナリしてしまうぐらい「見えちゃう・聞かれちゃう」感覚で講演などをしてします。

なぜなら、「良い・正しい」で武装されたカチカチの情報ってちっともセクシーじゃなくて、あまり好きじゃなかったりもします。「モテる人には隙がある」なんて話がありますが、突っ込みどころのある情報のほうが人を集めるセクシーさがあるのかもしれません。

よくApple製品を「シンプルなのが良いよね」と評する声がありますが、「シンプル」と「売れる」の間の相関関係・論理性がないいい加減な物言いに感じていました。しかし、今になって改めて考えてみると、「シンプル」というのは「何をすればいいかがわかるから、結果的にその行動をしてしまう」という意味で、「セクシーさ」と同じなのではないかと思うんです。

「シンプル」も「セクシーさ」も「良くないこと・間違っていること」も、本能的な人に行動を起こさせるという意味では共通だ…なんてことを理屈をつけながら考えていくと、良くない・間違っていると思えることが自分の中から生まれてきたときにも、発信してもいいかなぁ?と思えるものです。

話を戻しますと、発信という言葉に「良い・正しい」というニュアンスが含まれているような気がして、ちょっと腰が引けています。もし発信者を増やそうとするならば、もっとゆるい「話し好き」とか「筆まめ」とかそういった考え方を前へ進めていく方法があればいいと考えています。

幸運にも、一度マスプロダクトを出したことで「まったく会った事のない、人生の交わりの無い人へ何らかの影響を与えたりすることがある、可能である」ことについて、少なくともイメージすることができるようになりました。おかげで、仕事が何らかの形で誰かにつながったり、見ず知らずの人から好意をいただく可能性があることについて信じられるようになりました。

実はボクは「発信することはフィードバックを形成することで、そこにこそ意味があるものだ」とガッチリ認識しているわけではありません。もっとゆるい認識として、「発信しておくと、フィードバックがいつどこで来るかわからんぞ、来たらうれしいから、ちょっとがんばっておくかー」ぐらいの感覚で考えています。それが、情報発信のコツかもしれません。

[構成] 三石原士

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